メキシコシティの原型は、アステカ王国の首都であった「テノチティトラン」である。アステカ人がやってくるまで、現在のメキシコシティはテスココ湖が広がるのみであった。13世紀末にメキシコ盆地にやってきたアステカ人は、ウィツィロポチトリの神託に従い、テスココ湖の湖上で干拓を行い、1325年に島を作り上げるとそこに都を築いた。アステカ帝国の拡大に伴いテノチティトランも巨大になり、最盛期には人口は20万人から30万人を数えた。都市から対岸には何本かの土手道が築かれ、中央部にはピラミッドの築かれた壮麗な都市となった。テスココ湖は塩分を含んでいたが、南東部のコヨアカンには湧水があったため南東部は汽水域となっていた。そこで南北の土手道で湖水を遮断することで東部を淡水域化し、テノチティトラン周辺の農業用水とした。また、飲料水は西部のチャプルテペクの丘より石造りの水道橋で供給された[7]。15世紀以降、テスココ湖やその周辺では沼地の表面の厚い水草層を切り取り、敷物のように積み重ねてつくった浮島の上に湖底の泥を盛り上げて作ったチナンパと呼ばれる農地が多く作られた。この農法は肥沃な泥と豊富な水が得られることから非常に収量が高く、アステカの国力を支える重要な要素となった。
参照:ウィキペディア「メキシコシティ」